エミール・ガレについて

Emile Gallé( 1846 -1904)

エミール・ガレエミール・ガレはカトリック教徒の父シャルル・ガレ(1818-1902)とプロテスタントの母ファニー・レーヌメール(1825-1891)との間に1846年5月4日、フランス北東部のナンシーで生まれた。両親は陶磁器とガラス器を扱う店舗をナンシーに構えていた。母親の影響でガレはプロテスタンティスム的環境のなかで育てられた。

1858年から1864年までナンシー帝国 リセ(高等中学校)で学び、修辞学、哲学、フランス語、ラテン語、ギリシャ語、歴史学といった人文系の学問に優れた成績を修めている。植物学に没頭し、フランスの植物学の権威ドミニク=アレクサンドル・ゴドロンの指導も受けたことがあった。また、リセ就学時代にナンシーの美術学校教授が主催するデッサン教室にも通っていた。1864年にバカロレア(大学入学資格)を取得した後、1865年秋から67年までドイツのヴァイマールに留学し、ドイツ語や鉱物学を学んだ。フランツ・リストの弟子からピアノの個人レッスンを受けている。

ガレの最初の陶芸作品である食器セット「植物標本Herbier」をデザインしたのは留学中の1865年であった。1866年から翌年にかけて、ドイツ国境近くにあったマイゼンタールのガラス工場、ビュルグン・シュヴェーラー社で、ガラス制作の実際的な技術を習得する。同社はシャルル・ガレが1860年ごろから契約を結んでいた、ガレ家へのガラス原器(ブラン)の供給元であった。1870年の普仏戦争では、義勇軍に志願し、南仏トゥーロンなどに宿営している。1877年に父の後を継いで工場管理責任者となったが、財務管理はその後も父が行っていた。植物学にも極めて深い造詣のあったガレは、ナンシー中央園芸会の創立メンバーとなり、事務局長も務めている。

ガレは「突然変異」の存在を、ユゴー・ド・フリース(オランダの生物学者)が1901年に発表する以前から、ランの交配を通して認識していた数少ない植物学者のひとりであった。1878年パリ万国博覧会、1884年装飾美術中央連合展、1889年パリ万博、1900年パリ万博といった大イベントにおいて、ガレは数多くの賞を獲得し、フランスを代表する工芸家として国際的な評価を得た。

こうした万博を通して、日本をはじめとする極東や東方の文化と美術品に親しみ、それらは紛れもなくガレのジャポニスムや異国趣味的作品の重要な霊感源となった。1884年には家具工房のための敷地をナンシーに購入し、1886年に工房が完成している。しかし、ガラスの原器(ブラン)製造のための本格的な炉がそこに完備するのは遅く、1894年のことである。1901年にはロレーヌ地方の芸術家組合である「ナンシー派」を創設し、会長に就任した。

1904年9月23日、58歳で白血病によりナンシーの自宅で亡くなった。ガレの没後、工場は夫人のアンリエットによって経営が続けられた。第一次大戦中は製造を中止したが、1918年には娘婿のポール・ペルドリーゼ(1870-1938)らによって操業が再開された。1931年にガレ商会は解散し、工場の敷地は売却された。

 

  • 1846年 5月4日、ガラス器および陶器の販売業を営む父、シャルル・ガレと母、ファニーの息子として誕生。
  • 1865年 高等学校を修了し、ワイマールへ留学。
  • 1867年 サン・クレマン製陶工場のアトリエでデザイナーとして仕事を開始。
  • 1870年 普仏戦争が勃発。志願兵として普仏戦争へ参加。
  • 1875年 アンリエット・グリムと結婚。
  • 1877年 父の会社の経営を引き継ぐ。
  • 1878年 第三回パリ万国博覧会でガラスと陶器作品が銀、銅のメダルを受賞し注目を集める。
  • 1884年 装飾美術中央連盟展に出品。
  • 1885年 レジオン・ドヌール勲章5等を受ける。
  • 1886年 家具工房を創設。
  • 1889年 パリ万国博覧会に陶器、ガラス、家具を出品し、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金メダル、家具部門で銀賞を受賞し、装飾工芸家として国際的な評価を得る。
  • 1894年 ナンシーに初めて自身の窯を開く。
  • 1900年 パリ万博に大量のガラス器、家具を出品。再びグランプリを獲得し、ますます評価を高める。
  • 1901年 ナンシー派(芸術産業地方同盟)を設立し、会長に就任。
  • 1902年 フランス大統領エミール・ルーベがロシアを訪問。ロシア宮廷への贈り物にガラス作品12点が選ばれる。
  • 1903年 ナンシー中央園芸教会名誉会長に推薦される。
  • 1904年 第一回セントルイス万国博覧会に出展する。同年9月23日に白血病で死す。